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 未確認生物/ツチノコ

幻の珍蛇ツチノコ

三角形の頭と瓶ビール大の胴体。チチッという奇声を発して空中を飛び、眠っているときはいびきをかく。かわいい珍獣よ、いずこに!!

「えっ、2億円くれるって本当ですか?」

「はい、本当ですとも。ツチノコを生け捕りにして持ってきてくだされば、差し上げますよ」

 こう語るのは、兵庫県の千種町役場ふるさと振興課。

 千種町のようにツチノコを村おこしの一環として扱っているところは少なくない。

 同町以外にツチノコに懸賞をつけているところは、岡山県吉井町の2003万円、岐阜県東白川村の115万円、奈良県下北山村の100万円などだ。

 変わったところでは、兵庫県美方町の別荘地100坪、和歌山県すさみ町の100万円プラス副賞としてイノブタ1頭というものもある。

(※現在は行っていない)

 これでは宝くじで、1等をゲットするよりもずっと効率がよいのではと思いたくなるが、ところがどっこいそう簡単にはいかないのだ。

 謎めく珍蛇・ツチノコはだいぶ前からその実在を語られている動物だが、いまだに捕獲されていない。それで、未確認生物として懸賞の対象となっているのだ。

 日本最古の歴史書の『古事記』に美豆知(みずち)とか野槌(のづち)の名で出てくる。また『和名抄』『日本書紀』『新撰字鏡』『延喜式神名帳』など日本の古記録にも「ノヅチ」と記録されている。

 江戸時代に作られた日本初の百科事典『和漢三才図会』(正徳2年/1712)には「野槌蛇」と出て、絵入りでこう紹介されている。

「深山に棲み薮の中にいる。頭と尻は同じ大きさで、尾はとがっていない。槌に似て柄がないので俗に野槌と呼ぶ。口が大きい。坂を走り下り、人を追うときは速いが、上がることは極めて遅い。これに出会ったときには、急いで高い方へ上れば追っ手こない」

 つまり、ツチノコは現代になって突然変異的に出てきたのではなく、古代から存在していた動物らしい。

 ところが、現在に至るまで捕獲されていないことから、学術的にはその存在を認められていない。

 エサを飲み込んだときのマムシなのだとか、あるいは奇形の蛇なのだと言われ、ツチノコの存在は謎めくままなのだ。

 だが、これまでに多くの人から目撃したという報告があり、マムシやトカゲの類ではないともいえそうだ。

 ツチノコの特徴を上げてみよう。まず、体長は30〜80cmくらい。

 体色は焦げ茶色、黒、灰色で腹部は黄色。背部に斑点がある。

 体型はビール瓶から一升瓶ぐらいの胴で、三角形の頭が出て、ネズミのような尻尾を持っている。円筒型だが、やや扁平を成している。

 大食漢で単独での行動を好む。水上では体の後部を動かして泳ぐが、陸に上がると上下運動で進む。

 蛇は蛇行するが、ツチノコはシャクトリムシのように、胴体を上下にくねらせて進むというのだ。

 地中動物であり、夜行性。棲んでいる場所は斜面で、そこにはトンネルが縦横に通じている。昼間、外に出るのは月に一度か二度で、しかも午前10時から午後1時までの間とのこと。

 このような習性が、ツチノコを発見しづらくしているのだろうか。

 北は青森県から南は鹿児島県まで分布し、北海道や沖縄など南西諸島からは発見されたという報告はない。

 また人跡希薄な山奥だけに棲んでいるのではなく、環境さえよければ人家の庭にも棲むことがあるという。

 ツチノコの恐ろしげな姿はどのように語られているのだろうか。

 顔は苔むした岩石のように凹凸があり、蛇よりも醜悪で、不気味に目がまばたくという。しかもコブラのように立ち上がったり、ジャンプしたり、「チチッ」と鳴いたりするともいわれている。

 坂を下るときは、頭と尾がつながって輪になり、転がって行くとか……。

 蛇はあごをはずして餌を飲み込むが、ツチノコは口が大きいので、一息に飲み込んでしまう。

 ツチノコは外敵の目に全身をさらすことになると、動かないで、じっとして相手の出方を見る習性がある。

 ある人が小石を落としたところ、小石の方向に向かって、ツチノコが跳んだ。

 羽が生えているわけでもないのに、ジャンプすることによって9mも一気に移動するというからすごい。

 宙を飛んでいるツチノコは、さながらアジの開きのような形だったらしい。

 子供のツチノコは昆虫を食べて成長して、カエルやネズミを食べる。ツチノコの狩りの仕方はこうだ。

 草の中に潜み、通りかかった動物に飛びつく。そしてすばやく動物の喉元に食らいつく。蛇の場合、巻き付いて絞め殺すのだが、ツチノコは胴体が短いから、それができないで、肉食獣のように喉元を狙うのだ。

 多くの発見者がいながら捕まらない理由もさまざまに説明されている。

 まず、個体数が少ない。約50m間隔で1匹ずつ棲んでおり、巣穴につがいでいることはなく、雌雄は鳴き声を発して会うという。

 無毒説と有毒説があり、そのために噛まれると命を失うと昔から伝えられ、それで人が寄りつかなくなったといわれている。

 または、田畑へ向かう途中、ツチノコに遭えば不吉だとして家にこもる例が多く、ますますもって人とツチノコは出会うことが難しくなる。

 動きが俊敏で、追いかけるのがたやすくないのも、それまで生け捕りにできなかった理由だとか。

 ツチノコに詳しい人の話だが、こんな珍しい解釈もある。

 戦前に比べて現在は元気のないツチノコが増えているという。昨今では、農薬や化学肥料が施され、殺鼠剤が田畑にまかれる。殺鼠剤を食べたネズミがツチノコに食われる。そうするとツチノコはネズミの体内の毒で死ぬという訳。

「発見」の大ニュースはいつ!?

 農業を営む人は、この頃ツチノコがめっきり少なくなったという。

 かつてはツチノコが跳んでいる姿を何べんも見られたものだが、最近のものは跳ばないで、じっとしているだけだという。

 死んだツチノコが黄色い腹を見せて川の上流から、下流に向かって流れて行くのを見た人もいるそうだ。

 ツチノコはきれいな水とそれほど開発されていない森林さえあれば、生きていける動物という。逆に言えば、そういう自然豊かな環境がないと、ツチノコといえども生きられないのである。

 この先、開発が進めば進むほど、絶滅してこの世からいなくなってしまうかもしれないのだ。

 学者は否定するかもしれないが、存在を否定することもできない。

 かつて沖縄で、ヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコ。対馬で、ツシマヤマネコが発見されて大ニュースになったことがある。

 しかし、これらは学者ではない一般人が発見したものなのである。いなもなお、この謎めく珍蛇・ツチノコについて、多くの地方自治体や研究グループが熱心にツチノコ探しを推し進めている。

 いつ何時ツチノコが発見されるか知れない。そうなれば、超ビッグニュースとなり、暗い世相が、一気に元気づくことだろう。

【2003年5月11日】
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14:45 | 未分類
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 妖怪/人魚伝説

人魚伝説(若狭・小浜)

800歳まで美しいまま生き続けたといわれる「八百比丘尼」の伝説。美を保てたのは人魚の肉を食べたからと言うのだが・・・。若狭小浜のこんな珍しい話の裏には?!


「人魚伝説に惹かれて、この土地を訪れる人はとても多いんですよ」

こう話すのは、福井県小浜(おばま)市で、魚屋を営む女将さん。

昔、小浜の勢(せい)村に高橋権太夫という金持ちがいた。高橋長者は若狭の実在の豪族である。外国から珍しい品物を取り寄せ、それを売ってはお金を儲けた。

8つの蔵には金銀宝物がぎっしり詰まり、高橋長者の名前は他国まで響き渡っていたという。

そのころ、小浜の金持ち連中の間では、寄り合い(講)が時々開かれていた。高橋長者もその仲間のひとりだった。

この講は、講員の家で回り番に開いていた。いつのころからか、海辺の方の人物だという見知らぬ人が、講の仲間に加わっていた。

そこで、一度その人の家で講を開きたいと世話役が頼むと、「承知しました。舟を出して迎えに行きますから、皆さんご一緒においでください」という返事だった。

その講の当日がきて、一同は迎えの舟に乗り込んだ。その舟には何やら被いがかぶせてあって、外を見ることはできない。

どうやら舟は、ぐんぐん水中をくぐっているように感じられる。

やがて舟が目的地に着いた。みんなは主人の案内で舟を出て、家に入った。

その住まいは、小浜あたりの普通の家とは全く違う異国風の御殿だった。みんなは珍しく思い、御殿の中をあちこち見て回った。

会食が始まり、食膳にはくさんのごちそうが並べられた。

山海の珍味が次々と運ばれたが、その中にこれまで見たことのないものがあったので、高橋長者が尋ねた。

すると、「これは人魚の肉です。不老長寿の薬だからお召し上がりください」主人はこう返事をした。
ところが、ぶよぶよした不気味な肉なので、箸をつける気になれなかった。

「この料理は今日、第一のごちそうと思い、お出ししましたのに、食べてもらえないのは誠に残念です。せめて土産になされませ」

そう言って、包んでめいめいに持たせてくれた。

帰りも来た時と同じように、舟は水中をくぐったかと思うと、たちまちのうちに、元の海岸に帰り着いた。

みんなは気味悪がって、例のお土産を海に捨ててしまったが、高橋長者だけが包みを家へ持ち帰り、家族に見せた。

ぶよぶよの肉は気味が悪いと言って、誰も手をつけようとしない。

しかし、高橋長者の娘だけが物珍しさに箸をつけた。そうしたら甘くて身もとろけるようなので、残らずたいらげてしまった。

娘はそのとき16歳だったが、不思議なことにそれからは何年たっても歳をとらない。白い肌の娘姿だった。

やがて娘は、ある男性の元へ嫁いで行った。それから数十年が経過した。

娘の親が死んで、それから夫が年老いて死んでいったにもかかわらず、彼女だけはいつまでも若さを保ち、決して老いることがなかった。

その後、彼女何度も結婚したが、ついに子どもは授からなかった。

いつも夫の方が先に死んでいき、知っている人はすべてあの世に旅立っていった。

彼女はつくづく世の無常を感じて120歳の時、出家して、諸国行脚の旅に出る。

 病人や貧しい人を助けたり、道を造ったり、橋を架けたりした。

 行く先々で椿の種をまいて花を咲かせて、こちらに10年、あちらに10年というぐあいに祖国を巡った。

 いつでも容色が衰えることのない彼女のことを、人々はいつしか八百比丘尼(やおびくに)と呼んだ。
 ある時、彼女は生まれ故郷が懐かしくなって、小浜に帰った。

とはいえ、知る人は誰ひとりなく、思い出ばかりが切なく浮かぶだけだった。

 やがて思い余って彼女は言った。
「鐘の音が途絶えたら、わたしは亡くなったと思ってほしい」

 空印寺山門脇にある洞窟に入り、断食して自ら命を絶ったという。

 この洞窟は現在、高さ1.5m、奥行き約5mほどの洞窟だが、古老の話によれば、もとは、この洞穴がどこまで奥深かったかわからないそうだ。

 むかし、ある人が試しに探ろうと考えて入ったところ、3日に歩きつづけてやっと抜け出られたところが、100km以上も離れている大和の国だったというが話ある。

 このように奥深かった洞窟も、国鉄小浜線八幡トンネルを掘る工事の際、落盤で閉じられたのか、浅い洞穴になってしまったようだ。

 彼女は生前、椿をこよなく愛したので、玉椿姫とも呼ばれる。

 現在も洞窟の前には尼僧の化身といわれる白玉椿が咲いている。

 人魚について『日本書紀』の推古天皇の時代に、人魚らしいものを捕まえたという記録が登場する。
 ほかに『和名抄』『甲子夜話』『諸国里人談』など多くの文献に出ている。

 漁師が網にかかった人魚の肉を食べたら、突然大嵐が起こって、漁師は海の藻くずになったという話もある。

 捕獲した人魚を逃がしてやった漁師がいた。その後、美女に姿を変えた人魚がお礼に美しい玉を持参して、漁師に与えた。漁師はそれを売って、大金持ちになったという話もある。『和漢三才図絵』には、人面魚と上半身が女性で下半身が魚という二つの例が紹介されている。

人魚の正体はジュゴンなのか

 日本の妖怪類の見本を並べ尽くした鳥山石燕(とりやませきえん)の画集『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』(1781)の中の図では、醜悪な面貌に描かれている。

 また、八百姫が食べたのは、クジラと同じ哺乳類のジュゴンであるとする説もある。

 八百比丘尼の伝説は全国に広く分布している。特に分布密度の高いところは、北陸地方を中心として、東は関東地方や福島県、西は山陰、北九州から伊勢に及ぶ。

 これにより、彼女がたどったコースを推測することができる。

 また八百比丘尼の出生の地と伝えられている場所が全国に20数カ所あり、東は福島県から、西は福岡県まで至る。主な所は佐渡、越後、越中、能登、越前、若狭などだ。

 出生の地が多数あるにもかかわらず、死没の地は空印寺境内1ヵ所である。

 八百比丘尼が800歳の長寿を保ったということの真偽はともかくとして、彼女は歴史上に登場しているのである。

 室町中期の禅僧が書いた日記『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』には、こう記されている。

「文安6年(1449)7月26日、近頃八百歳の老尼が若狭から京都に入った。人々は争って見ようとしたが……門を閉ざして、人前に姿を現さない」

 654年、八百比丘尼が生まれる。669年、人魚を食べる。773年、剃髪して諸国巡礼の旅に出る。1454年、空印寺境内の洞窟で入定する。

 平成3年、小浜市が伝説の残る全国の市町村に呼びかけ「八百比丘尼サミット」を設立した。第1回のサミットは小浜市で開かれた。
 伝説を荒唐無稽なものとして片づけるのではなく、町おこしや集客に役立てる方法があることを八百比丘尼の例が物語っている。

【2003年6月9日】

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 沖縄/続々発見「沖縄〜九州」海底遺跡の偉容

続々発見!「九州〜沖縄」海底遺跡群の偉容!

故ジャック・マイヨールが「人工物」と断言した与那国間の海底遺跡。だが、九州と沖縄を結ぶ線上の海底には、さらなる遺構が眠っているのだ!

「与那国の海底遺跡には、強いオーラを感じます。とても神秘的で、石が語りかけてくるんです。芸術的で、間違いなく人間によって造られたものだと思います」
素潜りで100mという世界一の記録を達成した故ジャック・マイヨール氏は、友人で海底遺跡の発見者・新嵩喜八郎さんに生前、こう語っていたという。

与那国島の海底遺跡には、前出のマイヨール氏だけではなく、石原慎太郎都知事、宇宙飛行士・毛利衛さんなど数多くの著名人が訪れている。

なかでも熱心に海底遺跡を調査していたのは、かつて著書『神々の指紋』で世界的な大ベストセラーを記録したグラハム・ハンコック氏だ。
彼は海底遺跡と「天体」の関連性を指摘している。

着目したのは、海底遺跡の頂上部分に隆起する長さ1.5m、幅90cmの岩である。この「こぶ」のような岩と海底遺跡との位置関係が、ペルーのマチュピチュ遺跡にあるインティワナタと呼ばれる岩と遺跡の関係に酷似していることを発見したのだ。

マチュピチュ遺跡は古代、天体観測所として使用されていたと推測されている。与那国島の海底遺跡でも、天体との関連性を示すいくつかの箇所が見つかったのだ。

まず遺跡は、南の方角を正確に向いており、東西に走る深くて細長い溝は春分、秋分に太陽の昇降する方向を示している。また、海底遺跡のある緯度24度27分という位置も、天文学的にみて重要な意味を持っているという。

前出・新嵩さんは語る。
「ハンコックさんは、海底遺跡の方向にこだわっていました。まだはっきり結論が出たわけではありませんが、天体観測所のようなものと考えているようですね」

さまざまな人々を惹きつけてやまない与那国の海底遺跡。だが最近、沖縄から九州の海にかけて、新たな海底遺跡が次々に発見されているのをみなさんは、ご存知だろうか?
以下は、その主な遺跡である。

■慶良間諸島……ペンションのオーナーだった故・谷口光利さんは慶良間諸島の南方、外地島の沖にあるトムモーヤ礁(満潮時には海面下に隠れてしまう岩礁)周辺を潜っていった。その時、どうみても、人工的な6角形のセンターサークルと、石の配列ストーンサークルを見つけたという。

ストーンサークルは、大小5個ぐらいの石からなっており、なかには1mくらいの大きさの石もある。また、この辺り一帯には、祠、鏡石、小型のピラミッド、切り出し岩などもあった。

■粟国島……この島の西南端に位置する筆ん崎の沖合300mのところに、奇妙な岩が沈んでいる。ほぼ三角形をしており、長い辺で40mほどだ。

岩の表面から海面まで、わずか4mぐらいしかない。ダイビングショップ・美南海マリンスポーツを営む新城ひとしさんはこう説明する。
「深さ20mの海底に横たわる大岩に、円形の穴が大中小6つあいているんです。半径は小さいもので3mほど、大きいものは6mあります。大きな土管を埋めたような正円の穴は深さが3〜7mぐらい。穴の底は小石を敷いたように平らになっています」

粟国島では100年ほど前まで、島の西の浜、筆ん崎に転がっている凝灰岩をくり抜いて「トゥージ」と呼ばれる雨水をためる大きな石のかめを造っていた。今も民間の庭先で見かけるが、石臼ぐらいのものから、大きなものでは容量が500リットルもあるものもあるという。海底の岩をくり抜いた大穴は「トーゥージ」の原型ではないかと前出・新城氏は考えている。

■沖縄本島北谷(ちゃたん)……1990年10月、おきなわ西日本ダイビングスクールを営む玉城欣也さんは、不思議な遺構を発見した。この日のポイントは、北谷町宮城海岸だった。

5分ほど沖のほうへ潜行すると、目の前に何やら黒い影が見えたという。階段のような感じの岩で、かなり大きい。数えてみると、5段になっている。

これほど巨大な構造物が、わずか水深約20mに沈んでいたのだ。側面の壁は、海底の砂地から垂直に水深8mまでそびえ立っていた。

その日はいったん引き上げて翌日、発見したピラミッド状の構造物から北へ200mのところに、城壁のような構造物を発見したという。

これは中世の城のような雰囲気で、石を削って造ったような壁が長さ50mにも及び、水深19mから約80度の角度で立ち上がっていた。

壁の高さは9mで、中央部に段差があり、2つに分かれている。玉城さんはこれを第2の遺跡と名づけた。

さらに、そのすぐ北側で第3の壁を発見。これはスケールが大きく、北面に60mもの長い壁が延びていた。

最終的には全部で5つの遺跡を発見したという。前出・玉城さんは語る。
「最近、沖縄本島で最も大きい鍾乳洞が海底で見つかりました。それから、これはまだ伏せておきたいのですが、もしも発表したら一大センセーションを巻き起こすくらいの構造物も発見しました」

懸賞金100万円の幻の遺跡

■喜界島……テレビカメラマンの青木論さんら6名は1993年8月24日、喜界島へダイビングに行った。水深15mほどのところを潜行中に「あれは何だ!」と驚愕するような光景に出くわしたという。
長方形の石群が約3mの間隔で30m4方に整然と並んでおり、溝の交差部分には円柱が立っていた。

この円柱は、直径30cmほどでコンクリートの電柱のような形だった。溝の壁は、自然では絶対できないと思えるほど直角に積み重ねてあったという。波に削られてできたのではなく、岩が人工的に積まれたような景観だった。

だが、帰り道でのトラブルで、遺跡のスポットはわからなくなってしまい、その後、大規模な調査が行われたにもかかわらず、いまだにこの遺跡は発見されていない。

喜界町観光協会の事務局長・吉川浩文さんは次のように語る。
「複数の人たちが、同時に見たので、遺跡らしい構造物は確かにあると思います。この遺構を発見した人には、懸賞金100万円を差し上げますので、ぜひ挑戦してください」

最後に海底遺跡研究の第1人者、琉球大学理学部の木村政昭教授に、今後の調査について尋ねてみた。
「海中だけでなく、陸上にもさまざまな遺跡が発見されています。本島の陸上にドルメン(王の墓)が見つかりました。また、沖縄本島の北谷に与那国島の遺跡に匹敵するか、それを上回る規模の遺跡がありそうなところがあります。今年の夏に、水中ロボットを使って探索する予定でいます」

九州から沖縄に沈む海底遺跡の謎が解明されれば、人類の歴史に新たな1ページが刻まれることは間違いない。

【2004年8月10日】

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 沖縄/15世紀与那国島「巨人女王」

15世紀与那国島「巨人女王」伝説の痛快!

男顔負けの女傑・イソバは身長240cmもあり、怪力で知られていた。巨石文明の末裔ともいわれる巨人女族を追う!

「わたしは海底遺跡の階段を目のあたりにしましたが、現代人の構造物に比べてあまりにもスケールが大きすぎます。これを築いたのは、もしかすると、我々よりずっと大きな体格の人間ではないでしょうか」
素潜りで深さ約100mという、当時世界一の記録を残した潜水家、故ジャック・マイヨール氏が、このように語ったことがある。

海底遺跡の階段構造が、人間が上り下りするには段が高すぎるという指摘は、以前からなされていた。そのため、もし現代人よりも体の大きい「巨人」が利用するために造ったとすれば、納得がいくのだ。

じつは、この海底遺跡のある与那国島には「巨人伝説」が残っている。

時は15世紀。与那国島にサンアイ・イソバなる巨人が住んでいたという。ちなみに、サンアイとは村の名前であり、島で当時、最も栄えていた村落だった。イソバは女性の名前である。

サンアイ・イソバとは、サンアイ村に住んでいたイソバという意味になる。

伝説によれば、イソバはサンアイ村からソナイ地区に抜け出る「関門」であるパサグを、体を横にしないければ通れないほど大きかったという。

パサグとは、イソバの碑の後ろ側にある絶壁の割れ目のことで、近年も牛馬のような体の大きな動物が容易に通過していた事実を考えると、イソバがどれだけ巨体だったか想像できよう。

加えて、サンニヌ台の台石には、人間の足跡のような奇妙な「型」が残されているが、島の人々はそれをイソバの足跡と考えているという。

また、ハイ・ンダンに美田として残っているナガダ・ナガマチ一帯の開田や、現在は北牧場の一部になっているサンバル牧場の開拓は、イソバ本人が行ったと伝えられている。

さらに、イソバは牛7頭を御して、サンアイを夜明け前に出発。2里の山路を越えてナマ・ハマ(久部良港の南側の浜)に至り、そこで芋を刈って7頭の牛に積んで帰途につき、途中のサンバル牧場に立ち寄って、夕方までにサンアイ村に帰ったといわれている。このエピソードからも驚異の身体能力の持ち主だったことがうかがえるのだ。

しかも、イソバは人々を統治する才能があった。4人の兄弟をドナンバラ村、ダンヌ村、テバル村に配置して、各村を治めさせながら、自分は島の中央にあるサンアイ村に構えて、そこから酋長として各村の采配をふるっていたという。

また、このイソバの時代、既に木や茅を使って永続性のある住居が建設されており、常に衣服を着用していたらしい。

食物は野生のものだけでなく、牧畜や農作を行って充足していたようだ。年間を通じて食物は常に過剰で、陶器や農耕具、舟を造って隣島との交通もあったという。

15世紀後半のある日、イソバは悪夢にうなされて飛び起きて、兄弟の身を案じながら道を急いだ。パサグに至って東を眺めると、時既に遅く、ダティグ村、ドナンバラ村一帯は火の海だった。

イソバは、パサグからテンダの坂を一気に駆け下り、ソナイ村の密林と沼沢の中を突破。アラタドゥまで来たときに、宮古軍の大将・仲屋金盛(なかやかねもり)に遭遇する。

金盛は、未明に東崎の南側海岸のカラグンに上陸して、直ちにダティグ村とドナンバラ村を襲撃してイソバの兄弟を殺すと、村を焼き払って軍を西に進め、アラタドゥに到達したところだった。

イソバは金盛に会うやいなや襲いかかり、相手を捉えてつるし上げるとこう叫んだ。
「わたしの兄弟は生け捕りにしたのか、それとも惨殺したのか!」
金盛は慌ててこう答えた。
「ざ、惨殺した」
怒り心頭に発したイソバは、金盛の体をまっぷたつに引き裂こうと、捉えた足を左右に引っ張った。その瞬間、金盛は答え直した。
「違う! 生け捕りにした」

ぐずぐずしてはいられないと思ったイソバは、金盛を放免。火事の現場へ急行する。すると、どの村も焼き払われて、兄弟たちは皆殺しにされていた。

イソバは金盛を追討するため、急いで引き返したが、すでにウブンドという深山に身を隠した後だった。だが結局、宮古軍は侵略の目的を果たせず、ほうほうのていで島から脱出したという。

まさに、男顔負けの女傑だったが、肉体的にも男に劣らないほど強靭だった。なにせ身長が2m40cmもあったという。

イソバの家系は体が大きくなる遺伝子を持っていたらしく、実際にイソバの子孫は代々長身だったと伝えられる。

それにしても2m40cmというのはあまりにも大きい。伝説が誇張され、話が大袈裟に伝わったのではないかとも思ってしまう。

だが、この話はまんざら嘘でもないらしい。今は廃止されているが、与那国島には風葬の習慣があった。遺体を森の中にさらして白骨化させ、洞窟などに移し替えるのだ。現在も与那国島の各所には風葬の跡が残っている。

その跡に散乱した人骨は、異様に大きいという。分析したところ、普通の人間よりも身長が高く、骨の持ち主の背丈は2m20cmにも達した。

このことからも、イソバの身長が2m40cmあったとしても不思議ではないのだ。
巨人伝説は与那国島だけではなく、世界各地にある。

オーストラリアの自然学者レックス・ギルロイ博士は、40年にわたる調査研究で、地球にかつて巨人が生息していたという確信を得たという。

人類の進化の過程で、200万年前に枝分れして独自の進化を遂げたのが巨人ではないか、というのが博士の仮説である。

与那国島の海底遺跡をはじめとして、イギリス南部のストーン・ヘンジ、南米ペルーのサクサイワマン遺跡などは、すべて巨大な石が積み上げられていたり、巨石を加工したりして造られている。
これらは普通の人間の力、技術で造りえたとは到底考えられないのだ。

遺跡は「巨人族」が建造した?!

1998年、ボリビアの洞窟で、巨大な人骨が発見された。骨の大きさは普通の1.5倍あり、推定身長は2m50cm。頭蓋骨の大きさは、あごから後頭部の長さで30cmもある代物だった。

また、アメリカのユタ州でも推定体長が2m40cmもある人骨が発見されている。
テキサス州の考古学者、カール・ボウ博士によれば、1億3000万年前、恐竜や植物など「すべての生物」は巨大化したという。

このころ、地球は現在より10〜15%ほど小さかったと考えられている。そのため、大気圧は今より高く、磁場は大きく、酸素濃度も高かった。

そこで博士は、当時と同じ環境、すなわち高気圧・高酸素濃度を保つ装置を開発し、この中で生物を育成。

通常では、どんなに大きくなっても30cmにしかならないピラニアが、装置の中で育てられると65cmにもなることが実験の結果、判明したのだ。

高濃度の酸素の中では細胞の破壊が抑えられ、活性化が促されると考えられる。その結果、太古の生物は巨大化したのではないか、という仮説が導き出されたのだ。

はるか昔、与那国島に巨人族がいた。遺跡は、彼らが造ったとは考えられないだろうか。サンアイ・イソバは巨人族の末裔だったかもしれない。

【2004年6月15日】

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 沖縄/20m大鷲レリーフが語る陸上遺跡の謎

20m大鷲レリーフが語る陸上遺跡の謎

海底遺跡の壮麗さに目を奪われがちな与那国島だが、実は陸上にも驚嘆すべき人工物が数多く存在する。巨石に彫られた大鷲、さらにはピラミッドまで発見されているのだ!

「与那国には、もともと巨石文化があったんです。例えばこの島の墓は、ご覧のとおり、家のように大きいですが、古い墓は堆積岩を切り出して造られているんです」
海底遺跡の発見者であり、与那国島でホテル入船を経営する新嵩喜八郎氏はこのように語る。

巨石文化の「名残り」は海底だけにあるのではない。陸上にも不思議な形をした古代の遺物が数多く存在する。この島は、遺構だらけと表現しても過言ではないのだ。

祖納(そない)集落の北に位置する浦野墓地は、異様な雰囲気のする所だ。
亀甲墓といって女性の子宮を模した巨大な墓が、海に向かって無数に鎮座している。

なかでも、製造年月が古い墓には、人が上り下りできないような高さの段があり、これらは海底遺跡にある大きな階段と酷似しているのだ。

陸上にある遺跡の中で、最も有名なのは、ナスカの地上絵をほうふつとさせる巨大な鷲のレリーフだろう。

縦13m、横20m、高さ10〜50mもの大鷲で、サンニヌ台にある階段状構造のちょうど中央部の平らな場所に彫られている。

この大鷲は、上空から見ることなしには全体を把握できないような巨大な代物だ。
誰が、何の目的で作ったのか定かではないが、沖縄本島に残る「沖縄ロゼッタ・ストーン」に刻まれた鳥の線刻が、琉球古来の神として描かれていることから、このレリーフも「鳥の護り神」として彫られた可能性も考えられる。

これ以外にも、サンニヌ台ではくさび跡や炉跡と思われるものが発見されている。
さらに、この台そのものが砂岩の性質を利用して、人の手で加工されたテラスであることがわかってきた。

10m以上の長さで直線的に岩盤が切り出された跡や、岩の性質に逆らって手を加えた痕跡も見つかったのだ。

一方、新川鼻沖の遺跡ポイントから北東へ約2km離れた海岸部にある、海面から突出した高さ約15mの「立神岩」は1種異様な巨岩である。

古くから神聖な岩と見なされ、みだりに近づくと祟りを受けるとも言い伝えられてきたこの岩は一部、人の手によって加工されているという。

陸上からは、ただ単に細長い巨岩が海面から突出しているように見えるだけなのだが、沖からは「顔」のように見えるのだ。

この巨岩も何の目的で造られたのか判然としないが、島の外側に顔が向けられている点などから、島を外敵から守る役割を与えられていたとも推測できる。

また、沖縄ではつい一昔前まで「トゥージ」という石製のたらいが使われていた。
これは水道施設が完備していなかった時代、飲料水をためるために造られた石製の容器である。
材質は石灰岩ではなく、硬質泥岩、砂岩、凝灰岩などで造られ、与那国島の民家の庭先などには現在も放置されている。

最大のものは一辺数mもあり、巨石をくさび工法で加工し、丹念に内部をくり抜いて製造された。
くさび工法とは、まず濡らした木材を岩に開けたくさび穴に打ち込み、木の膨張を利用してヒビを入れて、石のハンマーで切り出すというものである。

与那国島では、大正時代までトゥージが造られていたという証言があるが、今では製造技術を知る人がいない。

この島のトゥージは、非衛生的であるという理由で進駐米軍によって、廃棄が命じられたことがあったのだ。
それでも、総計約262個が保管されていた。

サイズは様々で、飲料水の貯蔵だけでなく、豆腐作りや酒造、家畜の餌入れ、足洗いなど多くの用途に使い分けられている。
大きなものは、バスタブほどのサイズがあった。

また、サイズが大きければ大きいほど、裕福な家のあかしとみなされていたという。
石材は、島の西海岸にある岩が使われ、その場で製品に加工された。

村までの運搬には人手がかかり、小さなサイズなら、5人前後で運搬することができたが、大きなサイズでは100人もの人数と数日間の作業期間を必要としたという。

与那国島の遺物は、これだけではない。島の東西の端、東崎(あがりざき)や西崎(いりざき)周辺、さらに北岸の海底にも、城塞のような構造物や階段地形などが見つかっているのだ。

島で1番高い宇良部岳(うらぶたけ)の山頂付近にNTT無線中継局があり、その隣にも、階段のような岩の構造物が残されていた。

歴史作家の鈴木旭氏の調査によれば、この構造物は階段式の磐座(いわくら)ではないかという。
磐座とは、本土の山々にもみられる御神体岩である。

また、宇良部岳の北にティンダバナタという山がある。
この山頂部は平らな皿のようになっており、大規模な巨石群があって、小高い山になっている。
しかも、海底遺跡と宇良部岳、ティンダバナタを結ぶとちょうど一本の線上に位置しているという。

鈴木氏は、この線は与那国島の重要な「祭祀ライン」になっていて、さらにいえば、与那国島全体が聖地であり、海の神殿(海底遺跡)と山の神殿(宇良部岳とティンダバナタ)は、密接な関係で結ばれている可能性があるとも述べているのだ。

加えて、与那国島の西にある久部良岳の頂にも、磐座と思われる巨石群が存在するという。
御神体岩である磐座を持った久部良岳と宇良部岳。この2つの山には、さらなる共通点がある。じつは、西崎灯台から、サンニヌ台に向けて、東西にまっすぐ引いた線上に、両山とも位置しているというのだ。

島の3つの山がピラミッド?

前述した祭祀ラインの上にある山、すなわち、ティンダバナタ、宇良部岳に加え、東西に走る線上に位置する久部良岳は、頂に磐座を備えていることなどから、日本型ピラミッドとして考えることができるという。

つまり、古代の遺跡であること、山岳遺跡であること、祭祀遺跡であること、この3つの条件を過不足なく満たしているのだ。

このことにより、前に取り上げた海底遺跡だけでなく、与那国島にある3つの山もピラミッドである可能性が高くなってきている。

一方、海底遺跡に関する新事実が陸上にある遺跡から判明した。
与那国島の遺跡「トゥグル浜遺跡」がそれだ。

この遺跡の炭層年代を測定した結果、今から4400年前の遺跡であることが分かったのだ。
この事実により、4400年前でも海岸線が現在と変わらない位置にあったことが判明した。とすれば、すでに当時、海底遺跡は海の底に沈んでいたことになる。

言い換えれば、海底遺跡が造られたのは4400年前よりもっと以前ということになるのだ。
これにより、4400年以上も昔に、巨石を利用した超古代文明が与那国島に存在したという仮説がより一層、真実みを帯びてくるのである。

今後、与那国島の海底遺跡の謎を解き明かしていくためには、海底だけではなく、島の陸上部に残された石造物や伝統文化に対する調査が必要だろう。

【2004年5月9日】

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12:16 | 未分類
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