招福の妖精★座敷わらし
この可愛らしい妖精が出るという旅館は、なんと平成17年まで予約でいっぱいという。早速、現地に飛んで取材してみた!
「座敷わらしのでる部屋はとても人気がありまして、平成17年まで予約が詰まっているんですよ」
こう答えるのは岩手県二戸市金田一温泉郷にある旅館「緑風荘」の従業員だ。
宿泊はできないが、部屋を見るのはかまわないというので、わたしは緑風荘を訪ねた。
玄関から長い廊下を歩いた突き当たりに、目的の部屋はあった。
広さ12畳ほど。床の間や、それに続く違い棚には数え切れないほどの人形やおもちゃが飾られていた。
この部屋に宿泊して座敷わらしを実際に見た人たちが、供物として持ってきたものだ。
経営者の五日市和彦さんの居間、70畳、50畳の大広場のある曲がり家が、旅館になっている。
曲がり家とは母屋と馬屋を L 字型に連結した当地伝統の家屋で、同じ屋根の下で馬と同居生活するため、この屋敷構えが出来上がったという。
歴史を感じさせる家だ。座敷わらしが現れるといわれる部屋は曲がり家の奥屋敷で、南側に位置している。
床柱に槐(えんじゅ)の木が使われている。この木は中国原産の銘木で、高貴な木として知られ、日本でも長寿と幸運を招くとして大切にされてきた。
天井近くの壁に漫画家・つのだじろうが描いた座敷わらしの絵が掛けられている。何年か前、某テレビ局のスタッフがこの部屋で座敷わらしの絵を撮影していたら、絵の中の座敷わらしがまばたきをしたというので大騒ぎになったことがある。
ここで午前4時頃に、座敷わらしに会ったり気配を感じたりした人は、大きな幸運に恵まれるとされている。
座敷わらしとは、実際に対面した人の話やいろいろな文献を総合すると、5〜6歳ぐらいで、膝ぐらいまでの白い絣の着物を着たおかっぱ頭の男の子らしい。
座敷わらしが現れるときは「バリッ」というラップ音が聞こえ、現れた座敷わらしは宿泊客に布団の上から乗り上がったり、枕をひっくり返したり、自分が満足するまで遊びまわった後、どこかに姿を消すという。
座敷わらしを今に伝える五日市家は、古い歴史を誇る家だ。金田一地区一帯の総本家といわれ、現在の建物は元禄2年に造られた。
先祖は後醍醐天皇に仕えた貴族で、五日市家の始まりは14世紀の初頭だとされる。金田一温泉の管理人を代々務めてきたのも同家である。
同家は戦前まで同地方屈指の大地主で、旅館業は終戦後の昭和25年頃から先代が始めた。現当主は26代目だ。
座敷わらしの言い伝えをまとめると――。
南北朝時代のこと、南朝の人々は足利尊氏勢に追われて、辺境の地のここまで逃げてきた。その中に男の子が2人混じっていた。
1人は6歳。もう1人は4歳だった。子どもたちは五日市家に預けられた。子どもは同家の子どもとして大事に育てられていたが、6歳の男の子のほうは流行病で死んでしまった。
以来、子どもは五日市家に引き取られた恩義を感じて、座敷わらしとなって五日市家を守っているという。
別の説もある。大飢饉のときに、貧しい百姓たちが口減らしのためにやむを得ず間引きした赤ん坊らの亡霊ではないかというものだ。
座敷わらしが世間に知れ渡るようになったのは、昭和10年頃だ。岩手大学の教授・高橋康文氏が調査研究し、「座敷わらしはおかっぱ頭のかわいい妖怪だ」という話を新聞に掲載したのがきっかけだ。
座敷わらしが出るという奥座敷に宿泊した人の中で、これまでに総理大臣にまで出世した人が3人いる。「平民宰相」と呼ばれた原敬、太平洋戦争突入前年の昭和15年1月から7月まで勤めた米内光政、それと福田赳夫である。
座敷わらしは自分のやりたいことがたくさんありながら、何一つ成し遂げないで早死した。だから現世に現れて、自分が果たせなかった夢を実現させる能力をもった人や力を備えた人にそれを託すのだといわれる。
この奥座敷に泊まれば、男性は出世し、女性は幸運に恵まれるとの言い伝えが残っている。
前出の五日市氏が語る。
「座敷わらしはうちの守り神だと思っているのですが、この奥座敷に足を踏み入れたり泊まったりすると、北海道から沖縄に至るまで希望の学校や会社に入ることができたり、子どもが授かったりするようです。皆さん、座敷わらしのおかげだと考えて、再びいらっしゃったり、座敷わらしを祀る神社を造ってくれたりしました」
奥座敷の南側、稲荷神社と並んで小さなほこらがある。座敷わらしの生前の名前をとって「亀麻呂神社」という。幸運に恵まれた人たちがお金を寄進して一昨年に設けられたものだ。
奥座敷に向かう長い廊下の左右の壁には、水木しげる氏、小松方正氏など著名人の写真がずらりと並んでいる。故・遠藤周作氏もたびたびこの宿を訪れていたという。
座敷わらしは岩手県を中心とした東北地方北部に伝えられ信じられてきた。
子どもの姿で座敷に出没するので、この名がつけられているが、蔵にも出現するところから「クラワラシ」などとも称される。座敷わらしの棲んでいるとされる部屋に泊まっていると、枕返しをしたり、体を押しつけたりして寝かせないこともあるとか。
また、座敷わらしが家にいる間は裕福でいられるが、いったん出て行ってしまうと家は衰えるという。
たわいないいたずらをするだけなので、人々は怖がったりしないが、家の衰退や幸不幸に関わるために、人々から強い関心を持って受けとめられている。
民俗学の柳田國男氏の『遠野物語』によると、旧土淵村の今淵村の今淵勘十郎家で、高等女学校に通っている娘が帰省したとき、廊下で座敷わらしにばったり遭ったとか。12歳前後の男の子であったという。
伝承の中には悲惨な話もある
他に同村の山口孫左右衛門家の場合のように一家没落の悲話も伝えられている。
同家には童女2人の座敷わらしがいると伝えられていたが、ある時村の男が、見たこともない2人の女の子に出会った。どこから来てどこへ行くのかと尋ねると、山口孫左右衛門家から来て村の何某の家に行くと答える。
すると、しばらくして山口家では7歳の娘1人を残して家の全員が毒キノコに当たって死んでしまったとか。
その一方で、座敷わらしが移り住んだとされる某家は、今も立派な豪農として栄えているという。
座敷わらしの中には姿がはっきりしないで、足跡だけというのもいる。
土淵村田尻の古屋敷万十郎家が財産家として隆盛を極めていた時代のこと、ここに棲む座敷わらしは雨天の日など外に出て遊び回り、庭のぬかるみに小さな足跡をたくさん残していた。
また、同村柏崎の安部家は由緒ある家柄で、ここの座敷わらしは働き者だった。家人がいないときは、1人で音を立てて遊んでいるが、にわか雨があると洗濯物を取り込んでくれたという。
家人の性格を見分け、邪魔にしないでほうっておいてくれる家に住み着き、福を招くと語り伝えられている座敷わらし。
当時の人々が「家」をどう考えていたのかの思いがシンボリックな形となったのだろうか。直木賞作家の故・三浦哲郎氏も「座敷童子も自分の親しい仲間だと思いたい」と平成元年に色紙にしたためている。
【2003年2月10日】
★残念なことに、2009年に緑風荘は全焼してしまった。
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こう答えるのは岩手県二戸市金田一温泉郷にある旅館「緑風荘」の従業員だ。
宿泊はできないが、部屋を見るのはかまわないというので、わたしは緑風荘を訪ねた。
玄関から長い廊下を歩いた突き当たりに、目的の部屋はあった。
広さ12畳ほど。床の間や、それに続く違い棚には数え切れないほどの人形やおもちゃが飾られていた。
この部屋に宿泊して座敷わらしを実際に見た人たちが、供物として持ってきたものだ。
経営者の五日市和彦さんの居間、70畳、50畳の大広場のある曲がり家が、旅館になっている。
曲がり家とは母屋と馬屋を L 字型に連結した当地伝統の家屋で、同じ屋根の下で馬と同居生活するため、この屋敷構えが出来上がったという。
歴史を感じさせる家だ。座敷わらしが現れるといわれる部屋は曲がり家の奥屋敷で、南側に位置している。
床柱に槐(えんじゅ)の木が使われている。この木は中国原産の銘木で、高貴な木として知られ、日本でも長寿と幸運を招くとして大切にされてきた。
天井近くの壁に漫画家・つのだじろうが描いた座敷わらしの絵が掛けられている。何年か前、某テレビ局のスタッフがこの部屋で座敷わらしの絵を撮影していたら、絵の中の座敷わらしがまばたきをしたというので大騒ぎになったことがある。
ここで午前4時頃に、座敷わらしに会ったり気配を感じたりした人は、大きな幸運に恵まれるとされている。
座敷わらしとは、実際に対面した人の話やいろいろな文献を総合すると、5〜6歳ぐらいで、膝ぐらいまでの白い絣の着物を着たおかっぱ頭の男の子らしい。
座敷わらしが現れるときは「バリッ」というラップ音が聞こえ、現れた座敷わらしは宿泊客に布団の上から乗り上がったり、枕をひっくり返したり、自分が満足するまで遊びまわった後、どこかに姿を消すという。
座敷わらしを今に伝える五日市家は、古い歴史を誇る家だ。金田一地区一帯の総本家といわれ、現在の建物は元禄2年に造られた。
先祖は後醍醐天皇に仕えた貴族で、五日市家の始まりは14世紀の初頭だとされる。金田一温泉の管理人を代々務めてきたのも同家である。
同家は戦前まで同地方屈指の大地主で、旅館業は終戦後の昭和25年頃から先代が始めた。現当主は26代目だ。
座敷わらしの言い伝えをまとめると――。
南北朝時代のこと、南朝の人々は足利尊氏勢に追われて、辺境の地のここまで逃げてきた。その中に男の子が2人混じっていた。
1人は6歳。もう1人は4歳だった。子どもたちは五日市家に預けられた。子どもは同家の子どもとして大事に育てられていたが、6歳の男の子のほうは流行病で死んでしまった。
以来、子どもは五日市家に引き取られた恩義を感じて、座敷わらしとなって五日市家を守っているという。
別の説もある。大飢饉のときに、貧しい百姓たちが口減らしのためにやむを得ず間引きした赤ん坊らの亡霊ではないかというものだ。
座敷わらしが世間に知れ渡るようになったのは、昭和10年頃だ。岩手大学の教授・高橋康文氏が調査研究し、「座敷わらしはおかっぱ頭のかわいい妖怪だ」という話を新聞に掲載したのがきっかけだ。
座敷わらしが出るという奥座敷に宿泊した人の中で、これまでに総理大臣にまで出世した人が3人いる。「平民宰相」と呼ばれた原敬、太平洋戦争突入前年の昭和15年1月から7月まで勤めた米内光政、それと福田赳夫である。
座敷わらしは自分のやりたいことがたくさんありながら、何一つ成し遂げないで早死した。だから現世に現れて、自分が果たせなかった夢を実現させる能力をもった人や力を備えた人にそれを託すのだといわれる。
この奥座敷に泊まれば、男性は出世し、女性は幸運に恵まれるとの言い伝えが残っている。
前出の五日市氏が語る。
「座敷わらしはうちの守り神だと思っているのですが、この奥座敷に足を踏み入れたり泊まったりすると、北海道から沖縄に至るまで希望の学校や会社に入ることができたり、子どもが授かったりするようです。皆さん、座敷わらしのおかげだと考えて、再びいらっしゃったり、座敷わらしを祀る神社を造ってくれたりしました」
奥座敷の南側、稲荷神社と並んで小さなほこらがある。座敷わらしの生前の名前をとって「亀麻呂神社」という。幸運に恵まれた人たちがお金を寄進して一昨年に設けられたものだ。
奥座敷に向かう長い廊下の左右の壁には、水木しげる氏、小松方正氏など著名人の写真がずらりと並んでいる。故・遠藤周作氏もたびたびこの宿を訪れていたという。
座敷わらしは岩手県を中心とした東北地方北部に伝えられ信じられてきた。
子どもの姿で座敷に出没するので、この名がつけられているが、蔵にも出現するところから「クラワラシ」などとも称される。座敷わらしの棲んでいるとされる部屋に泊まっていると、枕返しをしたり、体を押しつけたりして寝かせないこともあるとか。
また、座敷わらしが家にいる間は裕福でいられるが、いったん出て行ってしまうと家は衰えるという。
たわいないいたずらをするだけなので、人々は怖がったりしないが、家の衰退や幸不幸に関わるために、人々から強い関心を持って受けとめられている。
民俗学の柳田國男氏の『遠野物語』によると、旧土淵村の今淵村の今淵勘十郎家で、高等女学校に通っている娘が帰省したとき、廊下で座敷わらしにばったり遭ったとか。12歳前後の男の子であったという。
伝承の中には悲惨な話もある
他に同村の山口孫左右衛門家の場合のように一家没落の悲話も伝えられている。
同家には童女2人の座敷わらしがいると伝えられていたが、ある時村の男が、見たこともない2人の女の子に出会った。どこから来てどこへ行くのかと尋ねると、山口孫左右衛門家から来て村の何某の家に行くと答える。
すると、しばらくして山口家では7歳の娘1人を残して家の全員が毒キノコに当たって死んでしまったとか。
その一方で、座敷わらしが移り住んだとされる某家は、今も立派な豪農として栄えているという。
座敷わらしの中には姿がはっきりしないで、足跡だけというのもいる。
土淵村田尻の古屋敷万十郎家が財産家として隆盛を極めていた時代のこと、ここに棲む座敷わらしは雨天の日など外に出て遊び回り、庭のぬかるみに小さな足跡をたくさん残していた。
また、同村柏崎の安部家は由緒ある家柄で、ここの座敷わらしは働き者だった。家人がいないときは、1人で音を立てて遊んでいるが、にわか雨があると洗濯物を取り込んでくれたという。
家人の性格を見分け、邪魔にしないでほうっておいてくれる家に住み着き、福を招くと語り伝えられている座敷わらし。
当時の人々が「家」をどう考えていたのかの思いがシンボリックな形となったのだろうか。直木賞作家の故・三浦哲郎氏も「座敷童子も自分の親しい仲間だと思いたい」と平成元年に色紙にしたためている。
【2003年2月10日】
★残念なことに、2009年に緑風荘は全焼してしまった。
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実質年率5.8%〜13.0%の借換え専用
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