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招福の妖精★座敷わらし

この可愛らしい妖精が出るという旅館は、なんと平成17年まで予約でいっぱいという。早速、現地に飛んで取材してみた!

「座敷わらしのでる部屋はとても人気がありまして、平成17年まで予約が詰まっているんですよ」
こう答えるのは岩手県二戸市金田一温泉郷にある旅館「緑風荘」の従業員だ。

宿泊はできないが、部屋を見るのはかまわないというので、わたしは緑風荘を訪ねた。
玄関から長い廊下を歩いた突き当たりに、目的の部屋はあった。

広さ12畳ほど。床の間や、それに続く違い棚には数え切れないほどの人形やおもちゃが飾られていた。

この部屋に宿泊して座敷わらしを実際に見た人たちが、供物として持ってきたものだ。

経営者の五日市和彦さんの居間、70畳、50畳の大広場のある曲がり家が、旅館になっている。

曲がり家とは母屋と馬屋を L 字型に連結した当地伝統の家屋で、同じ屋根の下で馬と同居生活するため、この屋敷構えが出来上がったという。

歴史を感じさせる家だ。座敷わらしが現れるといわれる部屋は曲がり家の奥屋敷で、南側に位置している。

床柱に槐(えんじゅ)の木が使われている。この木は中国原産の銘木で、高貴な木として知られ、日本でも長寿と幸運を招くとして大切にされてきた。

天井近くの壁に漫画家・つのだじろうが描いた座敷わらしの絵が掛けられている。何年か前、某テレビ局のスタッフがこの部屋で座敷わらしの絵を撮影していたら、絵の中の座敷わらしがまばたきをしたというので大騒ぎになったことがある。

ここで午前4時頃に、座敷わらしに会ったり気配を感じたりした人は、大きな幸運に恵まれるとされている。

座敷わらしとは、実際に対面した人の話やいろいろな文献を総合すると、5〜6歳ぐらいで、膝ぐらいまでの白い絣の着物を着たおかっぱ頭の男の子らしい。

座敷わらしが現れるときは「バリッ」というラップ音が聞こえ、現れた座敷わらしは宿泊客に布団の上から乗り上がったり、枕をひっくり返したり、自分が満足するまで遊びまわった後、どこかに姿を消すという。

座敷わらしを今に伝える五日市家は、古い歴史を誇る家だ。金田一地区一帯の総本家といわれ、現在の建物は元禄2年に造られた。

先祖は後醍醐天皇に仕えた貴族で、五日市家の始まりは14世紀の初頭だとされる。金田一温泉の管理人を代々務めてきたのも同家である。

同家は戦前まで同地方屈指の大地主で、旅館業は終戦後の昭和25年頃から先代が始めた。現当主は26代目だ。

座敷わらしの言い伝えをまとめると――。

南北朝時代のこと、南朝の人々は足利尊氏勢に追われて、辺境の地のここまで逃げてきた。その中に男の子が2人混じっていた。

1人は6歳。もう1人は4歳だった。子どもたちは五日市家に預けられた。子どもは同家の子どもとして大事に育てられていたが、6歳の男の子のほうは流行病で死んでしまった。

以来、子どもは五日市家に引き取られた恩義を感じて、座敷わらしとなって五日市家を守っているという。

別の説もある。大飢饉のときに、貧しい百姓たちが口減らしのためにやむを得ず間引きした赤ん坊らの亡霊ではないかというものだ。

座敷わらしが世間に知れ渡るようになったのは、昭和10年頃だ。岩手大学の教授・高橋康文氏が調査研究し、「座敷わらしはおかっぱ頭のかわいい妖怪だ」という話を新聞に掲載したのがきっかけだ。

座敷わらしが出るという奥座敷に宿泊した人の中で、これまでに総理大臣にまで出世した人が3人いる。「平民宰相」と呼ばれた原敬、太平洋戦争突入前年の昭和15年1月から7月まで勤めた米内光政、それと福田赳夫である。

座敷わらしは自分のやりたいことがたくさんありながら、何一つ成し遂げないで早死した。だから現世に現れて、自分が果たせなかった夢を実現させる能力をもった人や力を備えた人にそれを託すのだといわれる。

この奥座敷に泊まれば、男性は出世し、女性は幸運に恵まれるとの言い伝えが残っている。
前出の五日市氏が語る。
「座敷わらしはうちの守り神だと思っているのですが、この奥座敷に足を踏み入れたり泊まったりすると、北海道から沖縄に至るまで希望の学校や会社に入ることができたり、子どもが授かったりするようです。皆さん、座敷わらしのおかげだと考えて、再びいらっしゃったり、座敷わらしを祀る神社を造ってくれたりしました」

奥座敷の南側、稲荷神社と並んで小さなほこらがある。座敷わらしの生前の名前をとって「亀麻呂神社」という。幸運に恵まれた人たちがお金を寄進して一昨年に設けられたものだ。

奥座敷に向かう長い廊下の左右の壁には、水木しげる氏、小松方正氏など著名人の写真がずらりと並んでいる。故・遠藤周作氏もたびたびこの宿を訪れていたという。

座敷わらしは岩手県を中心とした東北地方北部に伝えられ信じられてきた。

子どもの姿で座敷に出没するので、この名がつけられているが、蔵にも出現するところから「クラワラシ」などとも称される。座敷わらしの棲んでいるとされる部屋に泊まっていると、枕返しをしたり、体を押しつけたりして寝かせないこともあるとか。

また、座敷わらしが家にいる間は裕福でいられるが、いったん出て行ってしまうと家は衰えるという。
たわいないいたずらをするだけなので、人々は怖がったりしないが、家の衰退や幸不幸に関わるために、人々から強い関心を持って受けとめられている。

民俗学の柳田國男氏の『遠野物語』によると、旧土淵村の今淵村の今淵勘十郎家で、高等女学校に通っている娘が帰省したとき、廊下で座敷わらしにばったり遭ったとか。12歳前後の男の子であったという。

伝承の中には悲惨な話もある

他に同村の山口孫左右衛門家の場合のように一家没落の悲話も伝えられている。
同家には童女2人の座敷わらしがいると伝えられていたが、ある時村の男が、見たこともない2人の女の子に出会った。どこから来てどこへ行くのかと尋ねると、山口孫左右衛門家から来て村の何某の家に行くと答える。

すると、しばらくして山口家では7歳の娘1人を残して家の全員が毒キノコに当たって死んでしまったとか。

その一方で、座敷わらしが移り住んだとされる某家は、今も立派な豪農として栄えているという。
座敷わらしの中には姿がはっきりしないで、足跡だけというのもいる。

土淵村田尻の古屋敷万十郎家が財産家として隆盛を極めていた時代のこと、ここに棲む座敷わらしは雨天の日など外に出て遊び回り、庭のぬかるみに小さな足跡をたくさん残していた。

また、同村柏崎の安部家は由緒ある家柄で、ここの座敷わらしは働き者だった。家人がいないときは、1人で音を立てて遊んでいるが、にわか雨があると洗濯物を取り込んでくれたという。

家人の性格を見分け、邪魔にしないでほうっておいてくれる家に住み着き、福を招くと語り伝えられている座敷わらし。

当時の人々が「家」をどう考えていたのかの思いがシンボリックな形となったのだろうか。直木賞作家の故・三浦哲郎氏も「座敷童子も自分の親しい仲間だと思いたい」と平成元年に色紙にしたためている。

【2003年2月10日】

★残念なことに、2009年に緑風荘は全焼してしまった。

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森の精霊「キジムナー」

好物は魚の左眼で、嫌いなものはタコと屁。ガジュマルの樹に棲む彼の存在を沖縄県民の半数が信じている!!

「今からお話しすることは作りばなしなどではなく、本当にあったことなんです」
沖縄・知念村(ちねんそん)にある久高島(くだかじま)で、民宿を営む西銘(にしめ)花子さんは、こう前置きしてから続けた。

「明治生まれのオジィが海へ釣りに行ったところ、海の中に電灯のような明るいものが飛んでいたというのです。そこで、オジィが『キジムナー、キジムナー』と呼んだら、不思議なことに、手の甲にお灸のような火傷ができたと言うんですね。
そして、その時以来、キジムナーは、オジィを誘って釣りに行くようになり、漁をするたびに、キジムナーはカゴいっぱいに魚を獲ってくれたと言います」

那覇郊外で乗り合わせたタクシーの運転手も、こう言っていた。
「わたしが子供の頃の時ですが、寝ているときに、キジムナーに襲われたことがあるんですよ。わたしは両手両足を押さえつけられて、まるで金縛りに遭ったようになってしまいました。必死に姿を見ようとしたんですが、上半身はボヤ〜と見えたけれど、下半身はよく見えませんでした」

なんでも、沖縄県民の半数以上がキジムナーの存在を信じているといわれている。
キジムナーとは沖縄で最もポピュラーな妖怪で、沖縄本島とその周辺に浮かぶ離島に棲んでいると伝えられている。

5歳くらいの子どもの姿形をしており、赤ら顔で髪の毛も赤い。
好物は魚の左眼、嫌いなものはタコと屁だという。

魚を獲るのが得意で、キジムナーと友だちになると、どんな魚でもいっぱい獲ってくれるので生活がだんだん豊かになる。
ところがキジムナーを裏切ったり、嫌いなものを出したりすると、手ひどい仕返しをされる。

ガジュマルなど、沖縄にたくさん自生している亜熱帯植物の老木を棲(すみか)とするといわれるが、棲んでいるだけで、いわゆる木の精ではないらしい。

地域によっては、キジムナーではなく、シェーマとかブナガヤとか呼ばれたりして、キジムナーという呼び名の意味は不明だ。

キジムナーについて他にもこんな不思議な話が伝えられている。
何百年か前の話、大宜味村(おおぎみそん)、多嘉里(たかざと)の村に、六又(むちまた)という屋号の家があったとか。

この家は、地頭代職の家柄で、代々徳が高い名家として知られていた。
戦前までは、漢文で綴られた家譜や、祖先の中国貿易の活躍ぶりを物語る銅製の鏡をはじめ、数々の貴重品も保存されていたという。

この六又の家が、キジムナーによって建てられたというのだ。
当時、斧(おの)や鉋(かんな)や鋸(のこぎり)などの木を伐り倒したり、削ったりする鉄器がまだ村に普及していない頃、キジムナーは大人がやっと抱えることができるような大木を根こそぎ引き抜いて、その丸太で家を造り上げたという。キジムナーは体こそ子どものように小柄だが、大変な力持ちなのだ。

このキジムナー、家の主に村一番の家をプレゼントしてあげてからは、その家の梁(はり)に住みつくようになったという。
そのうちにだんだん打ち解けてきたのか、夫婦の営みを天井からみてゲラゲラ笑ったり、夜でも昼でも時間構わず主を漁に誘ってくるようになった。

お人好しの主、文句を言わずにどんなときにも誘われれば喜んで応じた。
キジムナーは人間がいいなりになっている限り、決して害を加えることはないと伝えられている。
それに、キジムナーと漁に出ると、魚が舟いっぱい獲れるし、獲れた魚は、キジムナーが好物の左眼をくり抜いて食べるだけで、残りはすべて主のものになった。

とはいえ、妻への遠慮もあって、キジムナーと仲良しである素振りをしなかったが、女房から見ると、内心いつも誘われるのを待っているように見えた。

主がキジムナーを肩に乗せていると、身が軽くなって木の梢(こずえ)から梢へ跳び歩くことができたし、海の上も自由に歩くことができたので、主も楽しくてならなかった。

ところが妻の真鍋(まなびー)はおもしろくない。夫が自分から離れていくのではないかと思い、だんだんイライラしてきた。

真鍋は何度も、キジムナーと縁を切るように夫に頼んだが、生返事をするばかり。
いろいろ考えをめぐらせるのだが、なかなか名案が浮かばない。とうとうキジムナーに尋ねた。
「あんたが一番怖いものは何?」
キジムナーは答えた。
「屁と海のタコが大嫌いなんだよ」

これには裏があるに違いないと疑い、なかなか信用することができなかった真鍋は、村人にとって一番怖いものはハブなので、キジムナーもきっとそうだろうと考えた。

真鍋は密かに若者たちにハブを獲らせて、キジムナーが寝ているところへ放った。
そうとも知らずにキジムナーはすやすや眠っていた。

そのキジムナーに向かってハブがニョロリと近づいていった。やがて、ハブたちはわき腹をくすぐるように這って、首筋を通り過ぎていった。そこでようやくキジムナーは目を覚ました。
ところが、キジムナーは少しもハブを怖がらない。それどころか喜んでハブと遊んでいるありさまなのだ。

環境悪化でキジムナーも逃亡

驚いたことに、キジムナーが平気でいるのを見て唖然とするばかりの真鍋だったが、しかけたハブが自分の方に這ってきたのだという。

真鍋はハブから必死に逃げた。
しかし、どこへ逃げようとしても、四方から鎌首をもたげたハブがしつこく追ってくる。

とうとう逃げ場を失った真鍋は、力いっぱい家の中柱に抱きついて天井へよじ登ろうとした。真鍋が柱をたぐって尻を持ち上げた時だった。2、3発、大きな放屁をしてしまった。

キジムナーは不審に思って辺りを見回した。
その時、また1発「プー」と大きな音がした。

異様な音の発生源が何であるか気づいたキジムナーは「サッタルムン、サッタルムン」と叫んで逃げて行ってしまった。

それ以来、キジムナーは六又の家に住みつかなくなったが、真鍋は正直者のキジムナーに悪いことをしてしまった、と言って残念がったそうな。

「昔はひんぱんに姿を見られたのですが、今、久高島にはいませんねえ。戦後になってからは、出現したという話は聞きません」(前出・西銘花子さん)

もう1人の古老も言う。
「キジムナーは音に弱い妖怪です。今の街の騒音で、どこかに逃げて行ってしまったのかな」
キジムナーに見放された人間だもの社会環境は、やっぱりどうしようもなく悪化しているのだろうか。

【2003/1/13】

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スケベでいたずら好きな河童(遠野)

日本人にたいへん親しまれている妖怪で、時に薬の製法を教えたりする親切者でもある

「河童の好物はキュウリと言うのは誰でも知っていますが、ナスと女も好物なんですよ。日本全国に流布していまして、不届き者のスケベ河童ともなると、トイレの中からニュッと手を出して女性の尻やホト(性器)を触ってくるというんですよ」
と、土地の古老は話す。

 昔、便所は「厠(かわや)」といわれ、その名の通り「川の屋」だった。屋根があって2本の板が川に渡しかけてあり、板の上にしゃがんで用を足していた。そんなところへ河童の手が伸びてくるという。

 ところがいつも成功するとは限らない。

 ある日のこと、気丈な武士の娘が、そんな目に遭いそうになって、短刀で河童の手を斬り落とした。それが河童の手として保存されている例もある。

 ある地方の伝承では、斬り取られた手を返してもらったお礼に、河童が秘伝の薬の処方を教えたという。風邪薬から骨接ぎの薬まで、江戸時代には民間薬としても利用されてきた。

 このように風変わりな夢幻棲人である河童の嫌いなものとは何だろう?

 そのひとつは金物だ。河童が金物を嫌ったという説話は多く……、キュウリを盗んでいた河童を捕らえた農夫は、河童が毎朝魚を届けると約束したので放してやった。河童は玄関に金物だけは置かないでくれと言い、農夫も約束して別れた。

 それ以来、納付の家の戸口には毎朝、魚が2〜3匹、置かれていた。

 ところがある日、農夫が草刈りをした後、戸口に鎌を置き忘れた。すると翌朝から、河童から魚が1匹も届かなくなった。

 このように、罪を許してもらった恩義に河童が報い、その報いに人間も応じるという話も少なくない。
 その他、5月の節句に用いるヨモギや菖蒲、お経や仏飯も嫌いだといわれている。

 さらに河童の天敵は猿で、戦っても戦っても負けて、河童は猿にはまるで歯が立たないらしい。確かに、くちばしはあっても歯がなさそうな河童、歯がたたないのも無理はない?

 河童は主に川や池、沼、湖に棲んでいるが、海に棲む場合もある。
 姿かたちは、2階から10歳ぐらいの人間の子供の形をしており、おカッパ頭の中央に水を溜めるためのお皿がある。このお皿は河童になくてはならないもので、この皿が乾燥すると、身動きがとれなくなってしまうとか。

 また、背中に亀のような甲羅があるものとないものがおり、口は鳥のようにとがっているものが多い。

 手足の指の間に水かきが付いているのも特徴のひとつで、このために泳ぎが得意だといわれる。
 亀のようでもあり、水鳥のようでもあり、子供のようでもある河童には、ひょうきんなところがあり、自分の力を自慢したがり、人間に相撲を挑んでくる。

 これにうっかり勝ってしまうと、河童は勝つまでやめない。
 河童駒引き伝説というものもある。馬を川へ引きずりこむのだが、これは力自慢というよりは、河童とはもともと中国で馬をつかさどる神だったからだという説がある。

 ある時、淵に馬を冷やしにきた馬引きの子供が、馬を淵につけたまま遊びに行ってしまった。
 河童はしめたとばかりに馬を水中に引き込もうとするのだが、馬の方が力が強く、河童は厩まで引きずられてしまった。

 今度は、河童の方が驚いて、仕方なくかいば桶に隠れていたが、村人に見つかってしまう。
 日頃いたずらばかりしているから殺してしまえ、と村人が言うのを、これからは村の馬にいたずらをしないと約束し、許してもらったとか。

 中には人間を水に引き込もうとする河童もいる。凶悪な河童ともなると、人を水中に引き込んで尻の穴から「尻子玉(しりこだま 内臓)」を抜いて食べてしまうというからすごい。

 河童は、この尻子玉が大好物だ。
 そのため、河童を恐れる地方も多い。

 中部や関東地方には河童祓いの言い伝えがある。
 子供が川へ遊びに行くとき、仏壇のお供え飯のお下がりを食べさせる。そして、川で知らない人に出会ったら、おじぎをするように子どもに教える。

 もし相手が河童ならば、おじぎを返した時に、頭の皿の水が流れ出て、いたずらができなくなってしまうからだ。
 遠野市の中心部から少し離れたところにある常堅寺(じょうけんじ)に「カッパ淵」と呼ばれるところがある。

 常堅寺はこんもりと樹木が茂った村落の中にある。
 細い農道を入って行くと、小さな山門があり、櫓(やぐら)造りの鐘楼が見える。
 山門をくぐった左側のお堂の前に1対のこま犬が座っていて、立て札には「カッパ狛犬」と書かれている。

 この石造りの狛犬の頭には水がたまっている。
 250年ぐらい前、この寺が火事で焼けた。
 その時、河童が一生懸命皿から水をかけて、火を消そうとしていた。

 和尚はそれを見て「燃えるのも何かの縁だから、そのままでよい」と河童の労をねぎらって、村人たちにも消火作業をやめさせたそうだ。

 以外、河童狛犬にして閻魔堂の守り役にしたという。
 同寺の境内には「カッパ淵」と書かれた看板もある。
 それに沿って歩くと、やがて川が見えてくる。幅数メートルほどのやや蛇行したこの川には、澄んだ水が流れている。

川沿いに歩くと、細い橋があってそこを渡ると、小さい祠があった。
祠の中には人形やぬいぐるみが足の踏み場もないほど、いっぱい供えられ、その中に赤い布で作られた ウリのような形のものがあった。女性の乳房をかたどったもので、母乳がよく出るようにと妊産婦が願掛けをした供え物だ。

民間伝承には底知れない魅力が

カッパ淵には水の流れは速いが、それほど深くはない。実際に現地に行って取材した私は、このような所に河童が棲んでいたとは思えなかった。土地の人らしい老人に「この川には河童がいるんですか?」と尋ねてみた。

「いただどもサァ。昔はここの水位は川からあふれんばかりに高かったんだ。ここだけでなく、あちこちの川も、もっともっと水菜沢山流れておったサァ」

河童伝説には悲惨な話も伝わっている。遠野の伝説で、人間が河童の子を産んだというのだ。
村きっての旧家では数代続けて、家付きの娘に入り婿をとっていたが、あの日、家の主が夕方、畑から帰ろうとしたら、この娘が川の岸辺でうずくまって笑っているのを見つけた。

これはきっと河童の仕業に違いないという評判が広がり、親族の人々も心配していろいろ手を尽くしたが、奇怪な振る舞いは止むことはなかった。やがて娘は妊娠し、お産を迎えることになった。大変な難産だった。

だが、やっと産まれたその子の手には水掻きが付いていて、その姿形はとても醜くく、土地の人々は、ついにその子を斬り刻んで一升樽に入れて、土の中に埋めてしまったとか。

この例は悲惨極まりないけれども、時には人間に悪さをするが、秘伝の薬を教えることもある。
こんな河童の伝説は、人に深層心理の何を物語り伝えようとしているのだろうか。民間伝承の底知れない魅力を感じるばかりだ。

【2003年3月24日】

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未確認生物/ツチノコ

幻の珍蛇ツチノコ

三角形の頭と瓶ビール大の胴体。チチッという奇声を発して空中を飛び、眠っているときはいびきをかく。かわいい珍獣よ、いずこに!!

「えっ、2億円くれるって本当ですか?」

「はい、本当ですとも。ツチノコを生け捕りにして持ってきてくだされば、差し上げますよ」

 こう語るのは、兵庫県の千種町役場ふるさと振興課。

 千種町のようにツチノコを村おこしの一環として扱っているところは少なくない。

 同町以外にツチノコに懸賞をつけているところは、岡山県吉井町の2003万円、岐阜県東白川村の115万円、奈良県下北山村の100万円などだ。

 変わったところでは、兵庫県美方町の別荘地100坪、和歌山県すさみ町の100万円プラス副賞としてイノブタ1頭というものもある。

(※現在は行っていない)

 これでは宝くじで、1等をゲットするよりもずっと効率がよいのではと思いたくなるが、ところがどっこいそう簡単にはいかないのだ。

 謎めく珍蛇・ツチノコはだいぶ前からその実在を語られている動物だが、いまだに捕獲されていない。それで、未確認生物として懸賞の対象となっているのだ。

 日本最古の歴史書の『古事記』に美豆知(みずち)とか野槌(のづち)の名で出てくる。また『和名抄』『日本書紀』『新撰字鏡』『延喜式神名帳』など日本の古記録にも「ノヅチ」と記録されている。

 江戸時代に作られた日本初の百科事典『和漢三才図会』(正徳2年/1712)には「野槌蛇」と出て、絵入りでこう紹介されている。

「深山に棲み薮の中にいる。頭と尻は同じ大きさで、尾はとがっていない。槌に似て柄がないので俗に野槌と呼ぶ。口が大きい。坂を走り下り、人を追うときは速いが、上がることは極めて遅い。これに出会ったときには、急いで高い方へ上れば追っ手こない」

 つまり、ツチノコは現代になって突然変異的に出てきたのではなく、古代から存在していた動物らしい。

 ところが、現在に至るまで捕獲されていないことから、学術的にはその存在を認められていない。

 エサを飲み込んだときのマムシなのだとか、あるいは奇形の蛇なのだと言われ、ツチノコの存在は謎めくままなのだ。

 だが、これまでに多くの人から目撃したという報告があり、マムシやトカゲの類ではないともいえそうだ。

 ツチノコの特徴を上げてみよう。まず、体長は30〜80cmくらい。

 体色は焦げ茶色、黒、灰色で腹部は黄色。背部に斑点がある。

 体型はビール瓶から一升瓶ぐらいの胴で、三角形の頭が出て、ネズミのような尻尾を持っている。円筒型だが、やや扁平を成している。

 大食漢で単独での行動を好む。水上では体の後部を動かして泳ぐが、陸に上がると上下運動で進む。

 蛇は蛇行するが、ツチノコはシャクトリムシのように、胴体を上下にくねらせて進むというのだ。

 地中動物であり、夜行性。棲んでいる場所は斜面で、そこにはトンネルが縦横に通じている。昼間、外に出るのは月に一度か二度で、しかも午前10時から午後1時までの間とのこと。

 このような習性が、ツチノコを発見しづらくしているのだろうか。

 北は青森県から南は鹿児島県まで分布し、北海道や沖縄など南西諸島からは発見されたという報告はない。

 また人跡希薄な山奥だけに棲んでいるのではなく、環境さえよければ人家の庭にも棲むことがあるという。

 ツチノコの恐ろしげな姿はどのように語られているのだろうか。

 顔は苔むした岩石のように凹凸があり、蛇よりも醜悪で、不気味に目がまばたくという。しかもコブラのように立ち上がったり、ジャンプしたり、「チチッ」と鳴いたりするともいわれている。

 坂を下るときは、頭と尾がつながって輪になり、転がって行くとか……。

 蛇はあごをはずして餌を飲み込むが、ツチノコは口が大きいので、一息に飲み込んでしまう。

 ツチノコは外敵の目に全身をさらすことになると、動かないで、じっとして相手の出方を見る習性がある。

 ある人が小石を落としたところ、小石の方向に向かって、ツチノコが跳んだ。

 羽が生えているわけでもないのに、ジャンプすることによって9mも一気に移動するというからすごい。

 宙を飛んでいるツチノコは、さながらアジの開きのような形だったらしい。

 子供のツチノコは昆虫を食べて成長して、カエルやネズミを食べる。ツチノコの狩りの仕方はこうだ。

 草の中に潜み、通りかかった動物に飛びつく。そしてすばやく動物の喉元に食らいつく。蛇の場合、巻き付いて絞め殺すのだが、ツチノコは胴体が短いから、それができないで、肉食獣のように喉元を狙うのだ。

 多くの発見者がいながら捕まらない理由もさまざまに説明されている。

 まず、個体数が少ない。約50m間隔で1匹ずつ棲んでおり、巣穴につがいでいることはなく、雌雄は鳴き声を発して会うという。

 無毒説と有毒説があり、そのために噛まれると命を失うと昔から伝えられ、それで人が寄りつかなくなったといわれている。

 または、田畑へ向かう途中、ツチノコに遭えば不吉だとして家にこもる例が多く、ますますもって人とツチノコは出会うことが難しくなる。

 動きが俊敏で、追いかけるのがたやすくないのも、それまで生け捕りにできなかった理由だとか。

 ツチノコに詳しい人の話だが、こんな珍しい解釈もある。

 戦前に比べて現在は元気のないツチノコが増えているという。昨今では、農薬や化学肥料が施され、殺鼠剤が田畑にまかれる。殺鼠剤を食べたネズミがツチノコに食われる。そうするとツチノコはネズミの体内の毒で死ぬという訳。

「発見」の大ニュースはいつ!?

 農業を営む人は、この頃ツチノコがめっきり少なくなったという。

 かつてはツチノコが跳んでいる姿を何べんも見られたものだが、最近のものは跳ばないで、じっとしているだけだという。

 死んだツチノコが黄色い腹を見せて川の上流から、下流に向かって流れて行くのを見た人もいるそうだ。

 ツチノコはきれいな水とそれほど開発されていない森林さえあれば、生きていける動物という。逆に言えば、そういう自然豊かな環境がないと、ツチノコといえども生きられないのである。

 この先、開発が進めば進むほど、絶滅してこの世からいなくなってしまうかもしれないのだ。

 学者は否定するかもしれないが、存在を否定することもできない。

 かつて沖縄で、ヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコ。対馬で、ツシマヤマネコが発見されて大ニュースになったことがある。

 しかし、これらは学者ではない一般人が発見したものなのである。いなもなお、この謎めく珍蛇・ツチノコについて、多くの地方自治体や研究グループが熱心にツチノコ探しを推し進めている。

 いつ何時ツチノコが発見されるか知れない。そうなれば、超ビッグニュースとなり、暗い世相が、一気に元気づくことだろう。

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妖怪/人魚伝説

人魚伝説(若狭・小浜)

800歳まで美しいまま生き続けたといわれる「八百比丘尼」の伝説。美を保てたのは人魚の肉を食べたからと言うのだが・・・。若狭小浜のこんな珍しい話の裏には?!


「人魚伝説に惹かれて、この土地を訪れる人はとても多いんですよ」

こう話すのは、福井県小浜(おばま)市で、魚屋を営む女将さん。

昔、小浜の勢(せい)村に高橋権太夫という金持ちがいた。高橋長者は若狭の実在の豪族である。外国から珍しい品物を取り寄せ、それを売ってはお金を儲けた。

8つの蔵には金銀宝物がぎっしり詰まり、高橋長者の名前は他国まで響き渡っていたという。

そのころ、小浜の金持ち連中の間では、寄り合い(講)が時々開かれていた。高橋長者もその仲間のひとりだった。

この講は、講員の家で回り番に開いていた。いつのころからか、海辺の方の人物だという見知らぬ人が、講の仲間に加わっていた。

そこで、一度その人の家で講を開きたいと世話役が頼むと、「承知しました。舟を出して迎えに行きますから、皆さんご一緒においでください」という返事だった。

その講の当日がきて、一同は迎えの舟に乗り込んだ。その舟には何やら被いがかぶせてあって、外を見ることはできない。

どうやら舟は、ぐんぐん水中をくぐっているように感じられる。

やがて舟が目的地に着いた。みんなは主人の案内で舟を出て、家に入った。

その住まいは、小浜あたりの普通の家とは全く違う異国風の御殿だった。みんなは珍しく思い、御殿の中をあちこち見て回った。

会食が始まり、食膳にはくさんのごちそうが並べられた。

山海の珍味が次々と運ばれたが、その中にこれまで見たことのないものがあったので、高橋長者が尋ねた。

すると、「これは人魚の肉です。不老長寿の薬だからお召し上がりください」主人はこう返事をした。
ところが、ぶよぶよした不気味な肉なので、箸をつける気になれなかった。

「この料理は今日、第一のごちそうと思い、お出ししましたのに、食べてもらえないのは誠に残念です。せめて土産になされませ」

そう言って、包んでめいめいに持たせてくれた。

帰りも来た時と同じように、舟は水中をくぐったかと思うと、たちまちのうちに、元の海岸に帰り着いた。

みんなは気味悪がって、例のお土産を海に捨ててしまったが、高橋長者だけが包みを家へ持ち帰り、家族に見せた。

ぶよぶよの肉は気味が悪いと言って、誰も手をつけようとしない。

しかし、高橋長者の娘だけが物珍しさに箸をつけた。そうしたら甘くて身もとろけるようなので、残らずたいらげてしまった。

娘はそのとき16歳だったが、不思議なことにそれからは何年たっても歳をとらない。白い肌の娘姿だった。

やがて娘は、ある男性の元へ嫁いで行った。それから数十年が経過した。

娘の親が死んで、それから夫が年老いて死んでいったにもかかわらず、彼女だけはいつまでも若さを保ち、決して老いることがなかった。

その後、彼女何度も結婚したが、ついに子どもは授からなかった。

いつも夫の方が先に死んでいき、知っている人はすべてあの世に旅立っていった。

彼女はつくづく世の無常を感じて120歳の時、出家して、諸国行脚の旅に出る。

 病人や貧しい人を助けたり、道を造ったり、橋を架けたりした。

 行く先々で椿の種をまいて花を咲かせて、こちらに10年、あちらに10年というぐあいに祖国を巡った。

 いつでも容色が衰えることのない彼女のことを、人々はいつしか八百比丘尼(やおびくに)と呼んだ。
 ある時、彼女は生まれ故郷が懐かしくなって、小浜に帰った。

とはいえ、知る人は誰ひとりなく、思い出ばかりが切なく浮かぶだけだった。

 やがて思い余って彼女は言った。
「鐘の音が途絶えたら、わたしは亡くなったと思ってほしい」

 空印寺山門脇にある洞窟に入り、断食して自ら命を絶ったという。

 この洞窟は現在、高さ1.5m、奥行き約5mほどの洞窟だが、古老の話によれば、もとは、この洞穴がどこまで奥深かったかわからないそうだ。

 むかし、ある人が試しに探ろうと考えて入ったところ、3日に歩きつづけてやっと抜け出られたところが、100km以上も離れている大和の国だったというが話ある。

 このように奥深かった洞窟も、国鉄小浜線八幡トンネルを掘る工事の際、落盤で閉じられたのか、浅い洞穴になってしまったようだ。

 彼女は生前、椿をこよなく愛したので、玉椿姫とも呼ばれる。

 現在も洞窟の前には尼僧の化身といわれる白玉椿が咲いている。

 人魚について『日本書紀』の推古天皇の時代に、人魚らしいものを捕まえたという記録が登場する。
 ほかに『和名抄』『甲子夜話』『諸国里人談』など多くの文献に出ている。

 漁師が網にかかった人魚の肉を食べたら、突然大嵐が起こって、漁師は海の藻くずになったという話もある。

 捕獲した人魚を逃がしてやった漁師がいた。その後、美女に姿を変えた人魚がお礼に美しい玉を持参して、漁師に与えた。漁師はそれを売って、大金持ちになったという話もある。『和漢三才図絵』には、人面魚と上半身が女性で下半身が魚という二つの例が紹介されている。

人魚の正体はジュゴンなのか

 日本の妖怪類の見本を並べ尽くした鳥山石燕(とりやませきえん)の画集『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』(1781)の中の図では、醜悪な面貌に描かれている。

 また、八百姫が食べたのは、クジラと同じ哺乳類のジュゴンであるとする説もある。

 八百比丘尼の伝説は全国に広く分布している。特に分布密度の高いところは、北陸地方を中心として、東は関東地方や福島県、西は山陰、北九州から伊勢に及ぶ。

 これにより、彼女がたどったコースを推測することができる。

 また八百比丘尼の出生の地と伝えられている場所が全国に20数カ所あり、東は福島県から、西は福岡県まで至る。主な所は佐渡、越後、越中、能登、越前、若狭などだ。

 出生の地が多数あるにもかかわらず、死没の地は空印寺境内1ヵ所である。

 八百比丘尼が800歳の長寿を保ったということの真偽はともかくとして、彼女は歴史上に登場しているのである。

 室町中期の禅僧が書いた日記『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』には、こう記されている。

「文安6年(1449)7月26日、近頃八百歳の老尼が若狭から京都に入った。人々は争って見ようとしたが……門を閉ざして、人前に姿を現さない」

 654年、八百比丘尼が生まれる。669年、人魚を食べる。773年、剃髪して諸国巡礼の旅に出る。1454年、空印寺境内の洞窟で入定する。

 平成3年、小浜市が伝説の残る全国の市町村に呼びかけ「八百比丘尼サミット」を設立した。第1回のサミットは小浜市で開かれた。
 伝説を荒唐無稽なものとして片づけるのではなく、町おこしや集客に役立てる方法があることを八百比丘尼の例が物語っている。

【2003年6月9日】

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